「 『昭和天皇実録』公表で浮上する政治利用への疑問 」
『週刊ダイヤモンド』 2014年10月4日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1053
言論人として自身が目を通していない資料について述べるのは不見識なことだが、それを承知で書いてみたい。
9月9日に公表された「昭和天皇実録」である。1万2,000ページに上る膨大な量だそうだ。これから出版社を選考して来年出版されるとのことだが、新聞社や雑誌社は資料を入手し、それぞれ専門家による評価を掲載した。
9月10日から始まった「読売新聞」の記事が、昭和天皇ご幼少時の心温まるエピソードと共に、すでに君主としての自覚を養いつつあることを示す厳しい自己鍛錬の事例を紹介し、全体的にバランスが取れていた。他方、テレビ局も含めて一部のメディアは、昭和天皇と靖国問題に注目して、資料を拾い読みし解説した。
かねて、昭和天皇はなぜ、靖国参拝をおやめになったのかが論じられてきた。一部の人々は1978年秋にいわゆる「A級戦犯」と呼ばれる人々が合祀されたことが原因であり、それを裏付けるのがいわゆる「富田メモ」だと主張してきた。
富田メモは元宮内庁長官の富田朝彦氏が昭和天皇のお言葉として書き残したものだ。その中に昭和63(88)年4月28日のご発言として、「A級が合祀されその上松岡、白取までもが」「だから私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」などとのメモがある。
この富田メモが「実録」に収められたことから、一部の人々は富田メモの信頼性が確立されたと解釈し、「A級戦犯」合祀故に天皇陛下は参拝されなくなったことが確定されたと主張するのが目立った。
私自身「実録」に目を通していないこと、従って、論評を展開することにいささかの不安を感じている点はすでに述べた。それでも指摘したいのは、富田メモをここまで明確に「確立した歴史資料」と見なしてよいのか、それは最も戒めなければならない「実録」の政治利用ではないのかという疑問である。
富田氏は白鳥敏夫・元駐日イタリア大使を「白取」と書いている。また、「筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と書き残し、あたかも筑波藤麿宮司が「A級戦犯」の合祀を渋ったかのように書いている。しかし、これは事実と明確に異なる。現実に「A級戦犯」合祀を実現したのは筑波宮司の後任の松平永芳宮司ではあったが、合祀を決めたのは筑波宮司である。「時期は宮司預かり」とし、筑波宮司は何度か崇敬者総代会に「A級戦犯」合祀の件を諮っている。
こうした疑問に加えて、部分的に紹介された「実録」からも推察される、君主としてのお心構えを備えた昭和天皇が、最晩年、いかにご病気がちだったとはいえ、富田メモに書かれている乱暴な表現で、「A級戦犯」をなじったと、本当に信じてよいのだろうか。
「実録」発表に際して、東京大学名誉教授の伊藤隆氏は「実録」の政治利用を戒めた。同感である。だが、少なからぬメディアはすでに政治利用の域に入っているのではないか。「A級戦犯」故に天皇のご参拝がかなわないのであるから、分祀すべきだ、あるいは靖国に代わる無宗教の追悼施設を造るべきだなどの方向に、世論を誘導していこうというのではないか。
いま断定することは私にはできないが、とまれ、「実録」は来年には出版される。それまでの間に、私は「A級戦犯」と天皇との関係をもっと研究してみたいと思う。
天皇は「A級戦犯」だった東条英機元首相について、「昭和天皇独白録」でこう語っている。「一生懸命仕事をやるし、平素云ってゐることも思慮周密で中々良い処があった」など、言葉を尽くして東条をかばっている。そのような昭和天皇が「A級戦犯」合祀故に靖国参拝を取りやめたとする説は、あまりに政治的判断ではないかと思うのだ。